ハナ咲クハル・End"D"-1

ハナ咲クハル・End"D"-1




 ────アビドスの砂漠から蔓延した『砂糖』、サンド・シュガー。偽りの多幸感を植え付け、人の心を狂わせる、吐き気を催すほど悪辣な麻薬。

 それが産んだキヴォトスの歪みは瞬く間に憎悪となり、血で血を洗う殺し合いに行き着くところまで膨らみかけた。




 ──────ある1人の少女は、そんな状況に待ったをかけた。


 それだけはダメだと。殺される側も殺す側もそこに至ってしまってはならないと、まともに動かないはずの身体に鞭を打って立ち上がった。


 これは、その旅路の一つの終着点。










*****












「────────騙したんですか!?」


 怒るような、責めるような、それでいて泣きそうな。そんな叫び声が、反響する物の少ない砂漠では吸い込まれるように消えていく。


「ずっと、ずっと、最初っから!!私に、私たちに、嘘をついていたんですか!?」


 その言葉は、あの時のものと同じだった。私がトリニティを離れる時、この子は同じように慟哭していた。



「答えて下さい……!コハルちゃんッッ!!」



 ただひとつ違うのは、その相手が、私ではないことだけ。




「………………………………ひフ、み」




 ヒフミちゃんの視線の先は、1人の少女。

 トリニティの正義実現委員会であることを示す黒い制服は、もうすっかりボロボロになって。

 特徴的なピンクの髪は白くくすみ、トレードマークである頭と背中の小さな翼は、ところどころ羽が抜け落ちている。

 極め付けは、体に入った亀裂。頬や首周りに無数の楕円を描くように、細い線が無数に走っていて。


「…………コハル、ちゃん」


 まるで、蛇の鱗のようだった。





『────砂漠の蛇・アポピス。砂を介してキヴォトスを汚染した、今回の異変の元凶です』


 全身黒ずくめの異形の男。本人曰く、名前は『黒服』。

 『私たち』の、数少ない協力者のひとりだった。この一連の異変の黒幕と正体を教えてくれたのも、あの男だった。


『形となって現れることは無く、砂糖という形で取り込ませた因子を伝って、神秘に寄生することで永らえる。それを確実に滅するには────』





「アー……ぃっ、ぅ……」



 オーバードーズによって発現した、彼女の『癒す』力。対象の体内から砂糖由来の効能を中和し、中毒者の中毒症状と禁断症状を根治させる。結果的にそれは、取り込まされた蛇の因子を取り除くことにもなっていた。


 『自分の力で全ての中毒者を治す』。あの日彼女が掲げた未来は、針を通すなんて言葉では足りないくらいに、途方も無く険しく、可能性に乏しい道だった。

 けれど。キヴォトスで暗躍している集団たるゲマトリアを始めとして。ともすれば手を借りるべきではない者たちと、悪魔の契約のように協力を取り付け。時には、たくさんの人に嘘をついて、騙して。

 そうやって奇跡的に、成し遂げたのだ。全ての砂糖中毒者の治療を。



 ──────最後の中毒者にして、最後のアポピスの器となった、コハルちゃんだけを残して。



 コハルちゃんの目覚めた力は、唯一、コハルちゃん自身だけは、治すことができなかった。

 コハルちゃんは、ずっとそれを隠していた。自分の体調も、蛇に取り憑かれることも含めて……この瞬間まで、途中から合流したヒフミちゃん達には、隠し通していた。



「あの蛇が取り憑く先は、もうコハルちゃんしか残っていません。そして、コハルちゃんの中の砂糖を……蛇の因子を取り除くことも、蛇だけを分けて倒すことも、もう叶いません」

「だからっ……コハルごと、殺すって言うのか……!?その為に、ソレを……っ!!」


 悲痛な声を絞り出すように、アズサちゃんが言う。視線の先、私の手の中にあるのは、機械仕掛けの爆弾────かつてアリウスが所持していた、『ヘイローを壊す爆弾』。

 黒服と名乗る男の協力で手に入れたもの。聞けば、あのエデン条約の騒動で、アズサちゃんも使ったことがあるという。彼女からすればトラウマをほじくり返されたようなものだろう。それが少し、申し訳なく感じた。


「そんなのっ!!やってみないとわからないでしょう!?探せば、きっと……何か、方法が……!」

「それを待っているうちに、コハルちゃんの心と魂は、あの化け物に喰らい尽くされてしまうでしょうね」


 コハルちゃんが頭に頂くヘイローを見る。彼女を象徴するような小さな二対の羽があしらわれた輪にはヒビが入り、時折、ノイズが走るようにブレたかと思えば、自分の尾に噛み付く蛇のような輪に変わり、またノイズと共に元に戻る。そんなことを何度も何度も何度も、明滅するように繰り返している。

 何も知らなくてもわかる異常と限界。今はギリギリ対話ができるかできないか程度には意思が残っているけれど、このままでは遠からず、コハルちゃんはコハルちゃんでは無い、『別のナニカ』になる。


「…………っっ!!」


 目はどこか虚で焦点は合わない。ぱっと見てわかる程度にはボロボロの身体は不自然に汗をかき、カタカタと小刻みに震え。上手く口に力が入らないのか、受け答えも判然とせず、半開きになった唇からは唾液が垂れ流されていて。呼吸もどこかおかしく、不規則に肩で息をする度に、ヒューッ、ヒューッ、と掠れた音が聞こえてくる。

 そんな状態を見て。否応なしに限界を悟ってしまったのだろう。ヒフミちゃんが息を詰まらせた音が聞こえた。


「でも、でもっ……!」

「ダメですよ、ヒフミちゃん、アズサちゃん。それ以上近づいたら巻き込まれます。…………あなた達まで、一緒に来ることはないですよ」

「……っ、ハナコは!!それで良いのか!?コハルと一緒になんて、そんなっ……!」


 笑顔を作って、努めて明るい顔でそう言うと、2人は顔をくしゃくしゃに歪めた。

 そんな顔をさせるつもりはなかった。もっと言えば、ここで会うつもりもなかった。本当だったら、誰にも知られないように終わらせる予定だったのに。皆に気取られたと気付いてからは、黒服とその所属組織だと言うゲマトリアなる集団から、ミメシスを足止めに置いたというのに。


"────ハナコッ!コハルッ!!"

「ァ…………せン、せぇ……」


 砂に足を取られそうになりながら、それでも全速力でこちらに走ってくる姿が見えた。

 どうも文字通りの総力を上げて私たちを追跡したらしい。アズサちゃんとヒフミちゃんを先行させて、その上でミメシス全軍をほぼ半壊させ。残りを生徒達に任せて、大急ぎでここに来たのだろう。この生徒思いの"先生"は。


「………………」


 さて、困ってしまった。このまま先生が来れば止められてしまいそう。下手に刺激すればヘイロー爆弾が炸裂しかねないと踏みとどまっていたヒフミちゃん達も覚悟を決めて飛び出そうとしている。


 同時に、良かったとも思う。

 こういうもしものことを考えて、備えていてもらっていたから。



「────ホシノさん、ヒナさん」



「みんなのこと、よろしくお願いしますね」




「なっ──────!?」

"──────ヒナッ!?何をっ!?"


「………………」

「………………ごめん、なさいっ……!」



 私の合図を受けて、控えていた2人が一気に駆け出して、ホシノさんがヒフミちゃんとアズサちゃんを、ヒナさんが先生を抱えて、そのまま一気に走り去って行く。


「離してっ!!ホシノさんっっ!!離してください!!お願いですっ、おねがいだからぁ……!」

"駄目だっ……ハナコッ!!コハルッッ!!!"

「嫌だっっ……こんなのっ……いやぁぁぁぁぁ!!!」


 3人の叫びを聞いても、2人は足を止めないでくれた。双方共に広大な領地を踏破する足を持っている身、ものの数秒の内にどんどん遠ざかっていく。




「……………………これが、私への罰なら」



「ちょっと、残酷すぎるよ。ハナコちゃん」





 距離が離れる直前。そんな呟きが聞こえたような気がして。


「ごめんなさい。最後の最後で、辛い役をやらせてしまって」


 もう届かないとわかっているのに、無意味な謝罪が口から溢れた。


「さて。ようやく、2人きりに戻れた事ですし……」

「………………?」

「コハルちゃん。少しだけ、歩きませんか?」






*****






 誰もいない砂漠の中を、砂を踏み締めて2人で歩く。みんなのいる方角に背を向けて、なるべく離れるように。


「……………」


 もうまともに動くのも辛いだろう身体で、コハルちゃんはそれでも隣を歩いてくれた。ヘイローは相変わらずばちばちと明滅しては、あの蛇の証に切り替わろうとしているけれど、その度に何度でも元に戻る。最後の中毒者を癒した時から始まった、アポピスを抑え込み続けるコハルちゃんの姿。


「…………でも。それももう、ここまでです」

「……はな、コ?」

「これまで、よくがんばりましたね。コハルちゃん」


 すっかりくすんで傷んでしまった髪をそっと撫でる。指に引っかかった途端に髪の下がまとめて抜けてしまった。いけない、と思い直して、今度はそっとぽんぽんと頭に手のひらを乗せた。

 本当に。本当に、よく頑張った。

 不幸の連鎖、憎悪の拡散。それを止めようとして、たったひとりで立ち上がって。そしてついには成し遂げた。

 だからもう────苦しまなくていい。


「…………………思えば、コハルちゃんが止めたかったのは、誰かが私やホシノさん達を殺すことでしたが……まあ、私が勝手に自殺するだけなら、誰かが手にかけたことにもなりません。コハルちゃんの目的は、見事達成です」


 なんて、おどけた調子で言ってみせる。軽く言うにはあまりに重すぎる自殺予定。

 それに対して、コハルちゃんは。



「……………………ぁー…………?」



 虚な目。間の抜けた声。


 もう。会話すら、できなくなっていた。



「………………………ッッ……!!」



 ────────嗚呼。

 その姿を見て、わかってしまう。今更のように、実感が追いつく。もう、手遅れなんだということ。

 誰も死なせない。誰にも殺させない。そんな思いで始まった筈なのに。

 普段の彼女なら、絶対に、何バカな事言ってんの、なんて。そんな風に怒ってくれるに違いないのに。


 当初はあれほど拒んでいた私の死にすら、反応を示せない。彼女を彼女たらしめるものは、決定的に損なわれ、致命的に欠けてしまった。

 それは、今なお彼女を喰らい尽くし乗っ取ろうとしている怪蛇の仕業でもあり。彼女をこの地獄へと誘った、私の罪に他ならなかった。


「………………………」


 もうあまり、時間がない。コハルちゃんが、まだコハルちゃんである内に終わらせないと。そう思うのに。


「…………………………………………………ぅっ」


 これだから……あの子達には、会いたくなかったのに。


『ハナコは!!それで良いのか!?』

「…………良いわけ、ない」


 脳裏に蘇る声。叱るような、それでいて縋るような。そんな声に、思わず返答するように、口から音が溢れて行った。


「…………いいわけっ……ないっ……」


 そうだ。こんなの嫌だ。そう叫びたいのは、私だって同じだった。


「…………いいわけっっ……ないじゃないですかぁっ……!!!」


 死なせたくない。ずっと生きていてほしい。


「コハルちゃんっ……」


 おばあちゃんになるまでずっとずっと生きていて欲しい。叶うなら、ずっとそばにいたい。ずっとそばにいて欲しい。


「どうしてっ……こはる、ちゃんがっ……!」


 他愛のない事を話して笑い合っていたい。エッチなのは駄目なんて、また元気に叱って欲しい。勉強だってまだまだ、たくさん教えたいのに。


「死ななきゃいけないんですか……!」


 助けたい。今すぐ助けたい。助けて欲しい。この子が、誰よりも優しいこの子が死ななくて済むなら、何をしたって構わない。そう、心の底から叫びたい。


「ごめんなさいっ……ごめんなさいっっ……!!」


 全部、全部、全部全部全部私のせいだ。何の罪もないこの子を死の淵に追いやったのは私だ。

 …………いつだったか、アポピスの存在を知った彼女は。誰のせいでもないって、あの化け物が悪いんだって、そう言っていたけど。


「私が……わた、しが……!!」


 私が堕ちなければ。私が踏み止まれていたなら。きっと違う未来があったはず。


「…………ぅ、ぅう………っっ……!」


 そう思ったら。そんな資格なんてないのに。涙と、嗚咽が、止まらなくなってしまった。






 ────────でも。






「………………ごめんなさい、取り乱しました」



 すうっと息を吸って。強く吐く。感傷をなんとか振り払って。振り払えてなくても見ないフリをして。


「でも……たくさんのものを棚上げして、言わせてもらいますけど。ほんのちょっとだけ、コハルちゃんが悪いところもありましたよね?」


 自分の力が自分を治さないことを、最初から知っていて。

 ゲマトリアと接触して。アポピスの存在を知って。


 …………自分が助からない事を、早々に悟って。


「だから……自分の命で終わらせる事を、選んだんですよね?それも……自分ひとりの手で」


 まあ、元を辿れば、そんな悲痛な覚悟を決める程度に心を壊したのは、確実に私なのだろうけど。


「ほんと、ひどい子です」


 苦く笑いながら、ふう、と息を吐く。本当だったら、コハルちゃんは、命を絶つのは自分だけで済ませるつもりだったのだろうけれど。


「だから、コハルちゃんの言うことなんか、聞いてあげません」


 私は、それを受け入れなかった。


「まあ、案の定と言うか、コハルちゃんには猛反対されましたけどね」


 ただ、そのすぐ後にアポピスの侵食が進み始めて……結局、そのことについては結論は出ないまま。ちゃんと話し合うよりも前に、コハルちゃんとまともに話すことが叶わなくなって。


「こっちにだって、しっかりとした理由があったんですよ?最後まで納得してくれませんでしたけど……実際、私がいないとちゃんと死ぬところまで、実行できなかったじゃないですか」


 コハルちゃんが完全に乗っ取られてしまえば頓挫する、そんな懸念が生じたのがひとつ。今のまともに思考も行動もできなくなったコハルちゃんを見ると、やはりここに来て良かったとも思った。


「けど、それも実は建前で。コハルちゃん、それに気付いてたんですね」


 そしてもう一つ。多分、私にとって、一番大きな理由。


「でも私、やっぱり────────」





「コハルちゃんのいない世界じゃ、生きていけなさそうなんです」





 そんな、ちっぽけで、情けなくて、自分勝手な理由で。

 私は、一緒に死ぬことを選んだ。


「最後までわがままで、ごめんなさい。でも、これで最後だから」


 そう言いながら、手元の機械をいじる。ヘイローを持つものを確実に殺す爆弾、その物騒さと物々しさに反して、操作は拍子抜けするほど簡単だった。あとはもう、最後のひと押しをするだけで、全てが終わる。


 この異変も。私たちの命も。


「………………じゃあ、いきますね」


 震えそうになる手を何とか制して。

 後悔も、感傷も、何もかもを、振り切って。

 最後の、ボタンを──────






「──────はぁ。もう、わかったわよ」




「仕方ないから……一緒に逝ってあげる。ハナコ」






「ぇ…………?」


 ハッとなって、顔を上げる。


 虚だった目は、まっすぐにこちらを見ていて。

 はしたなく開いていた口には微笑みが浮かんでいて。



「コハルちゃ────」



「──────────……………………」


 それが……彼女の最後だったとでも言うように。ブブブッ、と強くヘイローがぶれて。


 蛇の形のヘイローが、今までにない程にくっきりと、現れようと────




「はい。逝きましょうか、コハルちゃん」




 爆弾のスイッチを作動させて、そのまま、コハルちゃんを抱きしめて──────













ハナ咲クハル────"D"end1










『散華、暮春』





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